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ブログ開始日 2021年12月31日

当ブログの考察は当事者の体験に基づく内容です。ご了承の上でお読みください。

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はじめに/目次

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言壁の棺 — 発達障害考察ブログ

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当事者考察の意義①—学習手段の喪失



 発達障害は心身機能の障害なのだから、症状のことは医療を頼り、生活のことは企業や行政の福祉サポートを頼ればいい。発達障害の認知度が高まった今は、そういうライフスタンスでも生きやすくなったと思う。平成生まれの人にとっては当たり前のことだろうか。昭和58年生まれ、発達障害の無認知時代を生きてきた私にとっては、時代変化の1つとして記憶している。

 

   ◇ ◇

 

 時代は変わっても、個人が指針としていたライフクオリティはそう変わるものではない。私の場合、それが「普通の人のように生きること」だった。

 私が考える普通の人とは、サザエさんでいうならマスオや波平、クレヨンしんちゃんなら父ちゃん、ドラえもんならのび太のパパ、といったアニメ主人公の親が基準であり、特別な能力を持たない「オフィスビルで働く会社員」のことだ。この思い込みは両親が共働きで、テレビっ子として育ったせいだと思う。

 自分自身の障害特徴を自覚し、普通の人を目指して生きることにした当時13歳の私にとっては、有象無象から飛び出さず生きていれば誰もが辿り着くはずのポジションだった。普通の人になれなければこの社会では生きていけないとも強く思った。

 それがとんだ思い込みであることを知ったのは30歳を過ぎてからだった。オフィス業務というものは、誰でもできる仕事ではなかったのだ。同時に、「なにを以って普通の人とするのか?」、その疑問と向き合うことになった。

 その答えを教えてくれたのが、人生をかけて続けていた発達障害考察だった。

 

   ◇ ◇

 

 31歳の時に発達障害の診断(アスペルガー障害)を受け、それからの私は当事者会に参加するようになった。自分と同じ症状に困っている人に会えることは最初こそ喜びや安堵を得られたが、次第に疑問の方が強まっていった。

 知的障害寄りの人は別としてだ、発達障害というものは、ちょっと会話をした程度では察知できない程度というのが共通認識だと思っていた。が、当事者界隈の実態は違っていた。当事者会の参加者には圧倒的に精神障害者が多かったのだ。

 分類上は発達障害精神障害だし、その境遇上、多種多様な症状の併発は避けられない。それは理解できる。でも納得はできなかった。わざかと思えるくらい不自然な声のトーン、喋り方、振る舞い。到底、自分と同種の障害症状だとは思えなかった。精神障害だとイメージが悪い、発達障害だと思ってほしいという願望があるから参加しているのではないか、と勘繰ったぐらいである。少なくとも自分が逆の立場なら発達障害の当事者会にはたぶん参加しない。

 奇異に感じる特徴のいくつかには、自身が普通の人を目指す過程で矯正した部分があった。その体験があるせいか、「向精神薬を使ってもこんなんでは意味がない」というのが率直な印象だった。普通の人を目指してきた私にとって精神薬というものは、少なくとも効果が出ている間は普通の人のように振舞えるものだからだ。

 

   ◇ ◇

 

 その後も当事者活動を通して他の当事者たちと関わり続けた。その体験を通してわかったことがある。

 日常感覚において「普通である・普通ではない」と認識できる人の特徴と、医者が医療見地から「普通である・普通ではない」と判定する特徴には、大きな隔たりがあるということだ。

 発達障害の無認知時代、自分のなにがどうおかしいのかを全てを手探りで決めてかからなければ前進できなかった私にとって、発達障害の認知度の高まりに伴って広がった医療や福祉との接点は本来、助けになるはずだった。精神科へ行けば、自分のおかしなところを専門的見地から教えてもらえると思った。でもそうではなかった。医療や福祉は日常感覚からみればおかしな言動をする相手を前にしても、その特徴を指して「普通ではない」と指摘しないのである。これは「日常感覚でいう普通の人」を目指している私のような人には大きな懸念である。

 私のニーズの前にあるこの壁を一言で言い表すと、それは「人権」というやつである。人間社会が獲得した真理の一つであり、私自身が保持する障害者手帳もその恩恵の一つだといえる。しかし現実はどうか。医者や福祉がどれだけ対等に接しても、メディアがどれだけ愛で地球を救おうとしても、おかしな人はその職務に当たっている人たちと生活しているわけではないし、実際の家族であっても、おかしな人と一緒に居続けることはできないのだ。

 

   ◇ ◇

 

 私は20歳の頃、人間関係を学習し直す為にネットを始めた。予想通り、インターネットはとても都合がよい世界だった。ネットに飛び交う忌憚のない言葉から、日常のクオリティに直結する質の高い学習をすることができた。後から気づいたが、私の取り組みは「他人の嫌悪感を学ぶこと」だったといえる。それは確かに日常の中でしかできない学習だった。

 しかし近年の誹謗中傷対策がそれを難しくしている。ゼロにはならないだろうが、この先では事実上不可能になるだろう。その後、おかしな人がおかしな人のまま日常に溶け込むという社会が形成されることは想像に容易い。現に今、メディア界隈がそのフィールド形成をけん引していると私は見ている。

 自分をおかしさを理解してなんとかしたいと思っている人にとっては、学習手段の喪失という問題に他ならない。だからこそ、この当事者考察という文化を絶やしてはならないと私は考える。「普通の人になる」という願望は、当事者個人が道を切り開いて獲得するしかないのだ。

 このブログが考察文化の維持、その一端になれれば幸いである。